きっかけ
「ステーションバー」というキーワードでSNSで話題になった吉本浩二さんのマンガですがコミックデイズさんで15話ぐらいまで無料だったので読んでみました。
夫婦で妻が家計を管理し、小遣い制となった夫の生活を描いていますが、単に作品として面白いのとは別に「幸せ」とは何だろうかという問いに対して1つの回答をくれる作品だと感じました。
お小遣い制についての価値観
お小遣い制で金額が少なければ、普通に
「やりくり大変ですね」
などといった感想にしかならないのですが、そのSNSで話題となった「ステーションバー」の回で私が注目したのは、ステーションバーを実践している彼(村田)がそこに行きついた理由がすごいのです。
彼はもともと月に5万のお小遣いをもらっており、金額としてはそれなりだと思います。
欲しいものも買えます。
しかしわざと金額を減らし、今の生活(ステーションバー含む)をしているという点です。 彼の行きついた結論は、「制限があるからこそ価値を感じられる」という事でした。親の庇護にあるが制限もある子供の頃の喜びを分析して、行きついた結論です。
己の人生と照らし合わせても共感できる結論です。
子供の頃に感じた制限
私の子供の時の制限といえば
- お菓子は満足には食べれない
- 欲しいものは月に1つ買えるか買えないか
- 数少ない娯楽のテレビすら共有物なので自由にはならない
- ゲーム禁止
といった制限がありました。
就職し1人暮らしを始めてから、これら制限は無くなりました。
もちろんお金には限りがあるので、なんでも好きなものを買えるという訳にはいきませんが、小さな幸せはほとんど満たせてしまいます。
高級品100%ジュース
これ好き |
印象的なのは、親が買ってくるジュースは果汁30%程度のものばかりで、子供の頃は100%果汁ジュースが高級品のイメージでした、そのため一人暮らしを始めて100%ジュースを毎日飲んでいた記憶があります
100%ジュースを飲み続けたら慣れて飽きたりします。子供の頃ほど貴重に感じないため、美味しい思う感覚も慣れてしまいます。昔ほどおいしくなくなってくるわけです。
プラモデルは好きだったのか?
ゲーム禁止家庭だったため、リアル趣味を持つしかなくガンプラを良く作ったりしていました、大人なってから作ってみると、とても面倒くさい。1/144のガンダム系ぐらいなら良いですが、マクロスFのVF-25Sを作った時は工程が多くて嫌になってきました。
一番スタイルが良いと思うバルキリー |
今なら大量にガンプラ買って作る事が出来ますが、やりません。本当はそんなには好きじゃなかったのです。 限られた趣味の中で自分が興味をもてたものをやっていただけでした。
でも楽しかった思い出がたくさんあります、お小遣い握りしめて模型屋さんで買って帰ってくるあの瞬間に感じた喜びは強く心に刻まれています。
制限が減ってきた今
今の世の中では制限は減りつつあります。
家欲しいとか車ほしいとかそういう、人生イベント的なものや贅沢品は別として、小さな幸せは昔よりも気軽に手に入る時代になっています。
100円ショップへ行けば、大概のものは格安で手に入ります。スマートフォンがあればゲームは無料でいくらでも遊べます。
月額ちょっとのお金で映画でもアニメでもドキュメンタリーでも見放題です。
Youtubeで音楽のほとんどが無料で聴けます。
幸せとはなんだろう?
制限がなくなってきた中で貴重だから幸せを感じていたものが、貴重ではなくなったために幸せを感じにくくなることを経験してきています。
私の中でゲームは子供の頃に貴重で価値のあるものとして生きてきました。大人になり、制限が取れ、たくさんゲームをしました。
たくさんゲームをしてゲームが苦痛になることも面倒くさいと思う事も経験しました。
今は週1、2回遊ぶぐらいです。
ゲームはゲームで疲れるのでジジイになったというのも1つの理由でしょうが、いくらでも無料でゲームができる中で、慌ててやらなくてもいいのかな?と思ってしまうのです。
制限と幸せ
就職後、働いて手に入れたお金を管理するにあたってなぜかドケチになりました。将来についての明確なビジョンがあったわけでもないのですが、貯まっていくのが楽しかったし、会社の同僚が株式投資をしたりでその影響を受けたりして投資資金が欲しかったり色々です。
ドケチで生きていると、ケチる事が幸せで、人よりお金を使わずに生きている事に幸せを感じました。自分で生活費予算(いわゆるこづかい)を決めてその中で生活していたりしましたが、 予算内で収まると達成感があったり、日々小さな買い物でも色々工夫したり考えますが好きでやっている事なので、どちらかというと楽しいです。
よくわかる例が
「ねぇねぇ、このTシャツいくらでしょう?」という問いです。
これはいかに安くTシャツを買えたかを人に自慢したい問いかけです。相手が高く見積もってくれて言われた金額より買った金額が安い時大変幸せを感じます。
幸せか惨めかは捉え方次第
前節のTシャツの問いですが、これをどう捉えるかが、「こづかい万歳」を考える上での重要な点だと思います。
自分が貧乏で惨めで、こんな安いTシャツしか買えないと考えていた場合、どこにも幸せはありません。
しかし前節のように安く買った手柄を自慢したい場合に惨めさはどこにもありません。
もう1つ捉え方の自分のエピソードを紹介します。
妻とスノーボードへ行ったとき、節約に力をいれていた自分と、旅行として楽しみたい妻との間に温度差があった事に気づいた瞬間についてです。
私はスノーボードが目的なので、他の費用はできるだけ安価に済ませる事に価値を感じていました。夕食はスーパーでおいしそうな熱々の唐揚げとその他を買って、ホテルの部屋で食べようとしてホテルにつきました。
妻はホテルのレストランやどこかのお店でのんびり食事がしたかったようで、スーパーでから揚げを買って部屋で食べている事実を「惨め」とまでは言いませんが、「寂しいこと」だと捉えていました。
どちらが良い、悪いという話ではありませんが、工夫して安く済ませたことに私は幸せを感じており、妻は寂しさを感じていました。
「こづかい万歳」を読んで感じる幸せの境界線
こづかい万歳の登場人物は皆ニコニコしており、幸せを感じています。
私たちが当たり前に思っていたり、制限上仕方がないと思って受け入れている事をポジティブにとらえてむしろ幸せを感じているので少し不気味に感じるかもしれません。
SNSで話題になったステーションバーという行為は、一般的には奇妙な行為として目に映りますし、客観的には惨めな行為に見えてしまいます。
しかしやっている本人は、駅のお気に入りの場所で好きなお酒を飲みながら趣味の人間観察を楽しんでおり、好きな事をしているので幸せです。
何不自由なく制限なく暮らせる事は幸せである可能性は高いですが、不自由な暮らしをしているからといって幸せでない可能性も低いといえます。
前節で書いた私のスノーボードの件も同じです。本人が惨めと思うのか幸せと思うのかは考え方、好きか嫌いか、何に重きを置くかの違いだけで事実は関係ないのです。
自分一人だけで暮らしているのならば良いのですが、仲間、配偶者、子供がいる場合には、ちゃんと幸せの意識を合わせておく必要があるとは感じました。
幸せの意識を合わせておかないと、自分の中では幸せだと思ってやっている事が、相手には何も幸せでない場合もあるでしょうし、むしろ不満な場合も考えられます。
ステーションバーの村田さんに、一緒にステーションバーを誘われたら私は幸せは感じない😅
こづかい万歳はそんなことを考えさせてくれるマンガでした。皆さんも読んでみてください。