ストレスをインターネット上に吐き出すことについて、うんこに準えてインターネットMyうんこという言葉を提唱したくなった。
私のブログ内でこのタグがついてる記事は、おおむね不満を書いている記事ですが、単に文句を言って終わるだけではなく、何かしら学びや反面教師となるように努めています。
以下はうんこについて真面目に語っています。
けっこう汚いエピソードも書いてあるので、タイトルに不穏なものを感じた方は別の記事をご覧ください。
ベンキマン |
きっかけ
身近な共有トイレが詰まり、水漏れのまま放置される事件が起きる。
ふと、「便器詰まる」から、子供の頃に見た漫画、キン肉マンのベンキマンの事を思い出した。
小学生だった私にとってトイレをモチーフにした怪人は面白すぎて記憶に刻み込まれている。
ベンキマンでぐぐったら、キン肉マン2世ではウォッシュアスという弟子の便器超人が居る事を知り、そしてウォッシュアスからトイレ(というか排泄)に関する大変面白いWebページを見つけた。
http://www.yuzuriha.sakura.ne.jp/~akikan/pain/um/28.html
今回はこちらの水沢晶さんの考え方に共感し自分の体験を踏まえて書いています。
汚いものを嫌う子供
子供時代汚いものをいじめる本能があったのは感じる。
うんこ漏らした子が、その後の立場が最悪になるのは誰もが知ってる事実である。
子供のころ学校でうんこをすることはなかった。
学校でうんこすることは弱点を作る事と同じで、避けたい行動だった。
山でテント張ってキャンプしたりする林間学校で3日ぐらい宿泊したときはさすがに限界で、友達に相談したら、「別にふつうじゃね?俺昨日うんこしたぜ」みたいなことを言われて大変勇気づけられ排出に挑んだ記憶がある。
その際にクソデカイ屁が出て、その友達には「○○がデカイ屁をした~」って大声で言われたが、そのこと(排便+クソデカ屁)でいじめられるような事はなく、あれから外での排便に対するハードルが下がった気がする。今思えば学びだったと思う。
クソという形容詞の魅力
今でもあまり良くないとわかっていながら「クソ〇〇」という表現を使ってしまう。
クソダサいとか、クソまずいとか、クソやばいとか、SNS周りで流行ってる気もする。
この表現、自分に向けて自虐的に使うには面白いが、誰かに向けて使うには大変よろしくない言葉である。
クソを排便や便の意味で使っているのではなく
の形容の意味で使ってるのは誰もがわかっていると思うのだが、クソにはすごいだけでなく嫌悪やおかしさ(funny)の要素があるように感じる。
自分に向けるとおかしさが強調され、他人に向けると嫌悪となるという不思議な言葉だ。
なぜこれほどクソという形容詞が魅力的なのか分かった気がする。うんこという最強のバックボーンがあるからだ。
うんこは武器
小学生ぐらいのときは道端のうんこを木の枝でつまんでふざけて投げたりしたことがあった。
うんこ触ってしまった子が触ってやるぞと追いかけてきた時には、キャッキャッ大笑いしながら逃げた記憶がある。自分が触ってしまい友達を追っかけたこともある。
学生が終わり就職した頃の自分は、よく言えば尖ってるみたいなケチな価値観のクソ人間で生きていましたが、そのせいか自分の車のルーフにうんこを載せられるいやがらせをされたことがあった。犯行声明とかなかったので確証はないが、鳥のフンならまだしもあんなデカいうんこが車の上に載ってることは自然には考えられない。
そして今でもたまに(犬の)うんこを踏む、踏んだまま車を運転し深夜に車のカーペットを洗うことになったり、最悪の経験は友人とスノーボードへ行ったらうんこ踏んだ靴で友人の車に乗っていた。 申し訳ないやら臭いやら悲しいやらで犬のうんこは適切に処理してほしい。
うんこは武器でもあったと確かに感じる。踏むだけでも辛いのに、ぶつけられるとなお辛い。
うんこと毒
人に悪口を言ったり、傷つけるような事をいう事を「毒を吐く」というが、ほんとうは吐く(口)ではなく、毒を出す(排出)という水沢晶さんの記事もなるほどと感じた。
我々はうんこや尿で体に必要ない毒も排出しており、確かにうんこは毒とも言える。
他人に毒を吐き続ける(排出し続ける)人間は、他人を便器扱いしている人だというのも面白い。
攻撃でなかったとしても毒がたまって、誰かに相談して話しきったらスッキリするわけで、聞き上手な人は洗浄能力が高性能な便器?なのかもしれない。
毒の排出先が人ではなく紙に書いた日記であったり、SNSであったり、ブログであったり、Yahooニュースのコメント欄であったりと、いろいろな形があるが、あれは誰かのうんこなんだと理解した。
自分はメルマガの罠のせいでアンチ楽天となり、嫌いな楽天という会社について自分のブログでせっせとうんこしていた。
せっかくなのでこれらの記事にはインターネットMyうんこのラベルをつけておいた。
誤って踏んでしまっても嫌な気持ちにならないでほしい。 同じアンチ楽天の人に読んでもらいたくて書いた。
他人に向けず自分のブログ(便器)でうんこしてる分には 多少はマシかとは思ったが、うんこしてるだけだとわかったので、この手の明確な対象のあるインターネットMyうんこな記事については、内容に学びが無い場合は今後は書かない事にする。
消そうとも考えたが、だれかが踏む可能性のある放置されたインターネットMyうんこのいい例だと思うので残す。
インターネットMyうんこ
正義を後ろ盾に、社会上で望ましくないことをやらかしてしまった人を責めていいような風潮があるように感じるが、やらかしてしまった人(便器)が見つかると、林間学校3日目の私のような排便したくて仕方がない人間たちが一気にあらわれ排便しまくってしまう。
やらかしてしまった悪い奴に罰を与えるという建前で、イライラのうんこを排泄しスッキリしたいのだと思う。
その結果便器が壊れる(やらかしてしまった人の自殺)などが起きてしまう。
自分の人生経験に当てはめて考えると、あいつはいけ好かない奴だと毎日たくさんの人にうんこを車のルーフに載せられるのと同じかと思う。
自分のアンチ楽天記事も同等だが、気に入らないと思う事に対しイライラ(うんこ)が溜まり。それを排出したくてどこかに書きだす事(排出)をしているのだと思う。
たまったイライラ(うんこ)を出したい衝動がある。
色々たまりすぎている人の場合、常にうんこがしたくてしょうがなく、排出する場所を探して徘徊している。
なぜアンチは寄ってくる?
なぜアンチと呼ばれる人たちがわざわざその対象となる人に注目し、わざわざ時間を使って攻撃をしているのかがよくわからなかったが、自分も楽天に向けたアンチ記事をわざわざ時間をかけて書いていた。
どういう気持ちで書いたのか内省してみると、楽天アンチな私はうんこ(文句)がしたくてしょうがなく、常に便器(吐き出す場所)を探しており、便器(吐き出す場所)を見つけたら排便(わざわざ時間を使って書く)をすると考えると、とても自然な行動だった。
排泄は快楽を伴う行為なので、わざわざ時間を消費して行うのだ。
自分の場合はブログという自家便器があったが、ない人は本人のコメント欄やtwitterなどで直接ぶつけにいくのだろうか?
炎上商法は便器商法といえる、うんこしたくてしょうがない人が多いので、排便しやすそうな便器を用意するとうんこしたくてしょうがない人たちが寄ってくるという。
うーん、このアナログハックはすごい。
さいごに
生きているとうんこがたまるのは普通の事、自然の摂理、そこに理由はなく、もしも他人にうんこをぶつけられてしまった場合は、たまたま排便しやすそうな便器に見えてしまったのだろう。それ以上の理由はないのだと思う。
他のたくさんの人が気持ちよくうんこをしてるのを見ると、してもいいのかな?って思ってしまい1人だったらしない状況でも、集団心理でしてしまうかもしれない。
うんこは嫌悪で武器で毒なので他人にぶつけてはいけないが、インターネットというフィルターを通すと相手が人間であることをあまり感じなくなり遠慮なくぶつけてしまう人がいるのが残念に思う。
実際にはうんこは辛辣な言葉に変換されてぶつけられるが、ぶつけられてしまった人は、酷い言葉が書いてあったとしても、正義や正論でまともっぽく飾り付けをしてあっても、元はうんこなので「この人排便がんばってんなぁ」って思えばむしろほほえましい。
あほな記事だが4時間ぐらいかけて排泄した、どうしてもうんこってたくさん書きたかった。
そしてこの記事もインターネットMyうんこ、モヤモヤと考えたことを理屈付けをして排出することでスッキリしたのである。