一畳のくつろぎタイム

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2025年4月24日木曜日

アニメフィギュアと芸術品の違いとは?評価の境界線を考える

日本のアニメ風フィギュアは芸術になれるのか?

2008年、サザビーズのオークションで村上隆さんのアニメ顔フィギュアが約16億円で落札されたというプレジデントオンラインの記事を読んで驚きました。

このプレジデントオンラインの記事自体は、私が思っていた事とは関係ないのですが、私はこのアニメ風フィギュアが芸術品として扱われたことに衝撃を受けました。

村上隆さんの Ko2(本の付録のレプリカ)

パッと見、なにかのアニメキャラのフィギュアと大差がないのです。
実際にはマネキン人形並みに大きいという突出した特徴はあるようです。
今2025年ならともかく、2008年、アニメ=サブカルチャーが強かった時期です。

私は昔から不思議に思っていたことがあります。

 

例えば・・
これはオタクで
ゴブリンスレイヤーII 女神官
 
 
これは芸術?
 聖母マリア彫像
 
どちらも神官ぽい服装の女性の像で形だけ見れば、共通点も多いです。
日本のアニメタッチで作られたか否かの違いしかありません。
でも片方は「オタクグッズ」と言われる可能性が高く、もう片方はオタクグッズだとは思われない。

私はどちらも美しい像だと感じます。

 

ミロのヴィーナスと現代フィギュアの比較

同じように半裸の女性像を見ても・・

これは芸術で

ミロのヴィーナス、露出度では下の像より上

最近の露出多めフィギュア

これはオタク?

 

精霊村美少女槍闘士第一村人


どっちも造形としては美しいし、むしろ最近のフィギュアの方が、肉体表現はリアルだったりする。確かに煽情的ではあるけど、それも「今の時代の魅力の基準」なんじゃないかなと思います。

時代や文化が違えば、ミロのヴィーナスだって「エッロ!!」って言われてたのかもしれない。ミロのヴィーナスも実はその時代の美少女フィギュアだったのかもしれない。

知らんけど

 

芸術かどうかは「誰が作ったか」で決まる?

村上隆さんのKo2は、ぱっと見アニメフィギュア、でも彼が作ったから、芸術として扱われた。

つまり「誰が作ったか」という“名前”が、評価の大きな要素になってる気がします。

この作成者補正はジブリ作品にはずっとかかっていて、

「ジブリが作れば健全アニメ、それ以外はオタクアニメ」

のような、謎の価値観。特に昔の日本には根強かった気がします。

 

製作者が不在の絵

最近では、AIが生成したイラストもよく見るようになりました。

すごく綺麗な絵も多い。でも、なぜか素直にスゴイと思えない事が多い。
たぶんそれは「誰が描いたか」が見えないからなんだと思います。

人が描いた絵って、たとえ荒削りでも、そこに「熱意」や「性癖」や「面白さ」がにじみ出ている。
その絵が好みだと、絵そのものだけじゃなく、描いた人にも自然とリスペクトの気持ちが湧きます。

「この人の描く絵が好きだな」って思う。

でもAIだと、その敬意の行き場がなくなってしまう。

村上隆さんのKo2が芸術として扱われたのは、作品そのものの造形以上に、

それを「誰が、どんな想いで作ったのか」

という背景が評価されたのかなと感じました。


作品の評価は“背景”で決まるのかも?

それが芸術か、オタク文化か。
それを分けるのは、見た目の問題ではなくて、作った人間の「物語」や「存在感」があるかどうか、なのかもしれません。

「現代アート」ってキーワードは、魔法のキーワードのように感じます。

本当は芸術品なのに、先入観やイメージでマスクされてしまってる情報へ「ちゃんと向き合ってね!」と訴える効果があるように感じます。